ウッディと一緒に迷子から抜け出そう

トイストーリー4観ました。

世間では賛否両論らしいんですけど私は良かったの方。

みんなトイストーリーという作品に良くも悪くも夢を見続けていて、そして夢しか見たくないんだなあ…と色んな感想眺めてて思いました。ディズニーでこんなの見たくないというのも分かるし、こんなのトイストーリーじゃないというのもまあ分かる、分かるけど、ウッディがちゃんと手を差し伸べて一緒に迷子から抜け出してくれる映画だったから、そのへん汲み取れないともったいないなーとも思ったり。

 

 

 

以下ネタバレ

  

 

4全体を通してとにかく感じたのは、ウッディって本当に本当にアンディに大事にされてきたんだな、ということ。

ウッディにとってもアンディの相棒であるということはアイデンティティそのもの。アンディの幼少期をずっと誰よりもそばで過ごしてきたんですよね。楽しい時も悲しい時も。だからこそウッディは、ボニーにクローゼットの中に仕舞い込まれる日が続いても、初めての幼稚園を不安がるボニーに付いていく。それはボニーが元々持っていたおもちゃ達では決して選ばない行動で、どんな時もアンディのそばにいたウッディだからこそ、そういう時におもちゃに出来ることがあると知っている。どこまでもウッディは、“アンディのおもちゃ”だったことが全ての指針になっているんですよね。

そんなウッディだから、ボニーにとって今最も必要なのはフォーキーだと分かるし、そのポジションが自分でないことも分かる。フォーキーに必死でおもちゃの在り方を説くし、自分の名前を呼ばれなくても遊んでもらえなくてもなおボニーのそばにフォーキーがいるよう立ち回る。

もはやそれだけがボニーのおもちゃになった、あるいはアンディのおもちゃではなくなった自分にとって出来るたった一つのことだから。

 

子ども一緒に遊ぶこと、子どもを幸せにすることがおもちゃの役目というのは確かに間違いなくその通りなんだけど、それ以上に“おもちゃが必要とされる時”というのが、終盤にもう一度描かれる。

ギャビーギャビーが遊園地で迷子の女の子を見つけるシーンで、ウッディは踏み出すのをためらうギャビーギャビーの背中を押すんですよね、「今こそがおもちゃの必要な時だ」と言って。

ウッディがシリーズを通してずっと掲げていた“子どものそばにいること”というのは、つまり子どもの心細い気持ちに寄り添うこと、心の拠り所になることという意味でもあったんだと知って、めちゃめちゃに泣いた。

“いつもそばにいる”おもちゃが、子どもにとってどれだけ勇気をくれるか、ウッディは知っているんですよね。アンディに大切にされていたウッディだからこそ、フォーキーのこともギャビーギャビーのことも見捨てない。彼らを必要とする子どもがいるから。

まるで主題歌「君はともだち」の歌詞を彷彿とさせるこのシーンに、涙が止まらなかった。子どもの遊び相手というだけじゃない、よりいっそう子どもにとっておもちゃが必要な理由が描かれたという意味でシリーズの中でも大事な位置付けの作品だなと感じました。

 

最終的に、ウッディはボニーと仲間達の元を離れ、ボーと一緒にゲームの景品のおもちゃ達を次々と子ども達の元へ送り出す野良のおもちゃになりますが、アンディのおもちゃとして存在してきたからこそ感じられたおもちゃとしての幸せを、今度は別のおもちゃ達にも知ってもらいたいと思ったから、そういう決断をしたんですよね。

おもちゃは子どものそばにいることを信条としてきたウッディは、ラストにボニーの元へ戻ることをためらうけれど、遊んでもらえないことを憂いてためらったわけではなく、どれだけあがいても“アンディのおもちゃ”としての自分を変えられないことに気がついてしまったから。アンディがボニーに自分を託したのだから、ボニーのおもちゃとして在らなければならないと言い聞かせ続けてきたけれど、“アンディのおもちゃ”として存在意義を確立させてきたウッディにとって、持ち主はアンディしかいない。アンディのおもちゃとして在り続けてきたからこそ生まれた心とアンディとの絆を胸に、“アンディのおもちゃではなくなったこれから”を進んでいくしかない。

バズも仲間達も、ちゃんとそれを分かってる。誰よりもアンディのそばにいて、誰よりもアンディのそばにいたいと願っていたウッディを。アンディはあの時ウッディを大学へ連れて行こうとしていて、この先もアンディのそばにいる未来がウッディには確かにあったけれど、仲間達とみんなで一緒にいることを選んだウッディを、今度こそ、思うままの道へ進んでいくよう送り出したんですよね。

 

足裏に書かれたボニーの名前とか、だけどボニーに遊んでもらえないこととか、ボニーの親に踏みつけられることとか、結構だいぶショックなシーンでしたが、おもちゃにとってボニーのような子どもって普通だしあるあるのことなはず。「子どもはすぐに忘れるし、壊すし、捨てる」とボーが作中で何度も言うように。決して残酷なことではなくて、自分の小さい時にだって心当たりのあるような、そんなこと。

アンディがおもちゃの持ち主として出来すぎた存在、理想のプロトタイプすぎたんですよね。アンディの元じゃなかったらウッディにはきっとあそこまで子どもを思う心は生まれなかったんじゃないかな。“アンディのおもちゃのウッディ”としての物語が1〜3、“アンディのおもちゃじゃなくなったウッディ”の物語が4だったと思います。そしてアンディのおもちゃのウッディだったからこそ、選んだ道なのだと思います。

 

ボイスボックスを失うシーン、作中飛び抜けてショックだったのですが、アンディとの思い出の一端でもあるボイスボックスを失うことすら、ウッディがもうアンディのおもちゃではないことを表しているようで、つらくてつらくてたまらなかったし、思ったよりもずっとアンディとウッディ、子どもとおもちゃの夢のような関係性をトイストーリーに求めていた自分に気づかされました。

だけど別にウッディはボイスボックスじゃなくて腕や足や目をちょうだいと言われても差し出していたんだろうな。ジェシーに保安官バッチを渡したように、それが子どものお気に入りで子どもとおもちゃの幸せに繋がることなら、ウッディは何だってやる。それはアンディのおもちゃだったウッディだからこその行動なんだとよくよく分かってここでも泣いた。

 

アンディにもらった幸せを、同じように自分がアンディに与えられていただろう幸せを、今度は他のもっとたくさんのおもちゃ達に。

持ち主を定めきれず迷子になっていたウッディが、最後にちゃんと迷子から抜け出す姿を見て、私もまた一緒に、“アンディのおもちゃだったウッディの物語”を終わらせることができた映画でした。